江戸湊の守り神  鉄砲洲稲荷湊神社

2021年08月06日

こちら、江戸時代の浮世絵に描かれた鉄砲洲神社とそのそばを流れる水路を描いた歌川広重の浮世絵。

歌川広重   『名所江戸百景 鉄砲洲稲荷橋湊神社』  (1857年/安政4年) 


霊岸島(現在の新川)から亀島川を望むと中央に稲荷橋、左手には鉄砲洲稲荷神社の朱色の壁と社殿があり、白い壁の蔵が並んでいます。(現在の湊1丁目、入船1丁目、新富町1丁目付近一帯)。

船が行きかう奥にのびる水路と右手一帯にのびるあたりが八丁堀。

鉄砲洲というと現在の中央区湊となりますが、江戸時代の「八丁堀」は茅場町、新富町、入船、湊の一部を含み、'八町の堀があるあたり,を指していたと考えらます。八丁堀、入船、湊はその地名からも海に関係していたことが分かりますね。

江戸湾から運び込まれる物資の水路として活用された八町の長さの川(堀)の周りには、米や酒、油、乾物などが河岸揚げされ、様々な商いが栄えるようになりました。


さて、浮世絵に戻ります。

左奥の方角には富士山が見えます。江戸時代の人々は、家業を真面目に勤めることが救いとなると説く「富士信仰」を熱狂的に支持しました。この富士山信仰から、旧暦6月1日には富士詣をすることが江戸庶民の習慣となり、ついては気軽には行くことができない子どもや女性なども富士詣ができるよう、江戸の町あちらこちらに人工の富士塚が作られ、人々はこぞってお参りをしたのだそうです。

  1. 良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。
  2. 稼げは福貴にして、病なく命長し。
  3. 怠ければ貧になり病あり、命短し

現代にも通ずる考え方が、江戸時代から脈々と続いているのが分かります。

この富士塚があったのが鉄砲洲稲荷神社。駒込、浅草、四谷、深川と並び有名な富士塚であったと史実には記されています。

『江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣』 歌川豊国(三代)、歌川広重(二代)(1864年/元治元年 )

その様子が分かるのが、上の浮世絵。右手に富士塚(日傘をさした人が上っているのが分かりますか?)、左手に船が浮かぶ江戸湊。

手前には富士詣をしてきた二人の女性、幼女は厄除けの麦藁細工の蛇を持っています。厄除けとして駒込富士で有名だったこの土産物は江戸各所の富士詣にも売られるようになったのだそう。他にも杏や林檎、まくわ瓜なども売られ、富士詣は縁日の賑わい、江戸庶民の楽しみだったことが分かります。昔も今も、子どもから大人までが神社に手を合わせたり、季節の行事に心躍らせたりするのは同じなのですね。


現在の鉄砲洲神社と現存する富士塚(令和3年7月撮影) 

鉄砲洲神社は明治元年に120m南に遷座されて以降、震災、戦禍などを経てきました。

またこの富士塚も社殿とともに撤去、移転、復元など数々の変遷を遂げて今に至ります。(昭和初期建造の社殿等は中央区民有形文化財として登録されている。)